LOGIN雨は、馬車の窓を細く濡らしていた。
王都の石畳に落ちる雨音は、場所によって響き方が違う。 貴族街では、整えられた道に控えめな音を立てる。 西区では、水たまりを跳ね、泥と混ざって重い音になる。 王宮へ近づくほど、音はまた澄ましていく。 まるで雨まで、相手の身分を見て態度を変えているみたいだった。 そんなことを考えてしまうあたり、私もずいぶん性格が悪くなったらしい。 いいえ。 もともと悪かったのかもしれない。 ただ、今まで隠すのが上手かっただけで。 「顔色が悪い」 向かいに座るギルベルト閣下が、また同じことを言った。 この半日で何度目だろう。 「閣下は、女性にかける言葉の種類が少なすぎます」 「増やす必要があるか」 「社交界で生きるなら」 「社交界で好かれる予定はない」 「でしょうね」 私がそう返すと、ギルベルト閣下はほんの少しだけ眉を上げた。 「否定しないのか」 「閣下ご自身も否定なさらないでしょう」 「そうだな」 「では、お互い様です」 馬車の中に、少しだけ沈黙が落ちた。 不快な沈黙ではない。 むしろ、言葉を使わずに呼吸を整えるための沈黙だった。 午前中に王宮で監査補佐官に任命され、孤児院へ行き、仕立屋へ踏み込み、公爵邸で母と対峙した。 そして今、また王宮へ向かっている。 昨日までの私なら、一日分どころか一月分の騒ぎだ。 けれど、身体は不思議と動いている。 足も、手も、頭も。 ただ、心だけが少し遅れてついてくる。 母の顔。 セレスティナの泣きそうな声。 『本当に、帰ってこないの?』 あれを思い出すたびに、胸の奥が鈍く痛む。 私は帰らなかった。 帰る場所は自分で決める、と言った。 言ったことに後悔はない。 でも、痛くないわけではない。 それが、ひどく面倒だった。 嫌いなら嫌いでいい。 憎むなら憎むでいい。 完全に切り捨てられたなら楽なのに。 母にもう一度だけ信じてほしい自分も、セレスティナを置いてきたことに傷ついている自分も、まだどこかにいる。 人間は本当に、帳簿のようには整理できない。 「リディア」 「はい」 「考え込むな」 「命令ですか」 「助言だ」 「閣下の助言は、命令と見分けがつきません」 「慣れろ」 「ほら、命令になりました」 ギルベルト閣下は、そこで少しだけ黙った。 それから、珍しく視線を窓へ逃がすように外を見た。 「……考え込むな、と言ったのは」 「はい」 「今の君は、考えると自分を責める方へ行く」 私は言葉を失った。 雨の音だけが、馬車の中に残る。 ギルベルト閣下は窓の外を見たまま続けた。 「母親を責めた。妹を置いてきた。孤児院の件に気づいていたのに止められなかった。おそらく、そういう順番で自分を刺している」 「……閣下は、読心術でもお使いに?」 「顔に出ている」 「出ていません」 「出ている」 「出ていません」 「では、私の推測が当たっただけだ」 「当てないでください」 「無理だ」 「本当に厄介な方ですね」 そう言いながら、喉の奥が少し熱くなった。 責められると思っていた。 母を告発するような真似をして、妹に冷たい言葉を投げ、元婚約者の窮地も助けなかった。 誰かに「やりすぎだ」と言われるのが怖かった。 けれどギルベルト閣下は、そうは言わなかった。 考えると自分を責める方へ行く。 ただそれだけを見抜いて、先に釘を刺してくる。 優しいのか、冷たいのか、本当に分からない。 「閣下」 「何だ」 「私は、悪い娘でしょうか」 聞いた瞬間、自分でも情けない問いだと思った。 二十一歳にもなって、昨日まで婚約者だった王子を突き放し、監査局で母の署名を証拠として扱っている女が、悪い娘かどうかを気にしている。 滑稽だ。 でも、聞かずにはいられなかった。 ギルベルト閣下は、すぐには答えなかった。 こういう時、彼は軽い慰めを言わない。 きっと考えている。 そして、答えを誤魔化さない。 「良い娘か悪い娘かで考えるなら、君は今日、公爵夫人にとって悪い娘だった」 胸が、ちくりと痛んだ。 だが、彼は続けた。 「だが、王国にとっては必要な監査官だった。孤児院にとっては、やっと屋根を見た人間だった。自分自身にとっては、初めて黙らなかった女だった」 私は膝の上で手を握った。 「どれを選ぶかだ」 「選ぶ?」 「すべての人間にとって良い者でいるのは不可能だ。特に、不正を暴く側に立つならな」 「母にとって、悪い娘でいることを選べと?」 「違う」 ギルベルト閣下は、今度はこちらを見た。 「母親にとって都合のいい娘でいることを、やめろと言っている」 その言葉は、静かに胸へ落ちた。 都合のいい娘。 便利な娘。 強い娘。 泣かない娘。 いつも、場を収める娘。 それを母は、良い娘と呼んでいたのかもしれない。 ならば。 「……私はもう、良い娘ではいられませんね」 「いなくていい」 「簡単におっしゃいます」 「簡単ではないから、命じている」 「また命令です」 「そうだな」 ギルベルト閣下は、そこで少しだけ口元を緩めた。 「命令だ。都合のいい娘をやめろ」 その言い方があまりに乱暴で、私は思わず笑ってしまった。 泣きそうだったのに、笑ってしまった。 もう、自分の感情がよく分からない。 「閣下」 「何だ」 「やはり、女性への励まし方を学ぶべきです」 「今のは駄目だったか」 「効きました」 「なら問題ない」 「問題しかありません」 馬車が王宮門をくぐる。 門兵たちが姿勢を正した。 王弟宰相の馬車だと気づいたのだろう。 同時に、中に私がいると分かった者が、小さく目を見開く。 噂はもう広がっている。 昨日の夜会で婚約破棄された公爵令嬢が、翌日には冷血宰相の馬車で王宮に戻ってきた。 社交界は、この手の話を好む。 可哀想な女。 みっともない女。 すぐに別の権力者へ縋った女。 きっと、好き放題言うだろう。 だが、噂はいつも一方向にしか流れないとは限らない。 王宮中の弱みを知る悪女が、冷血宰相の直属になった。 そうなれば、笑っていた者たちの方が眠れなくなる。 馬車が東棟ではなく、中央棟へ向かった。 私は眉をひそめた。 「監査局へ戻るのでは?」 「王議室だ」 「王議室」 「ああ」 「……閣下、まさか」 「第二王子、王太子、王宮文書局長、会計院長、南部侯爵がいる」 「なぜ南部侯爵まで」 「会談が決裂したからな。ついでに呼んだ」 「ついでが重いと、先ほど申し上げたはずですが」 「一度で済む」 「効率の怪物」 「褒め言葉か」 「罵倒です」 「そうか」 ギルベルト閣下は、まったく堪えていなかった。 私は額に手を当てたくなった。 王議室。 そこは、王族と主要官僚が重要案件を協議する場所だ。昨日までの私は、第二王子の婚約者として隣室で資料を整えることはあっても、正式に席へ呼ばれたことはほとんどない。 それが今日、婚約破棄の翌日に、冷血宰相の直属として入る。 社交界どころか王宮中がひっくり返る。 「閣下」 「何だ」 「事前に言ってください」 「言えば逃げたか」 「逃げません」 「では問題ない」 「心の準備というものが」 「君は準備しすぎる」 「準備は大事です」 「準備しすぎると、相手の都合まで考える」 私は黙った。 本当に、この人は痛いところばかり突く。 「今回は、君の都合で動け」 「私の都合」 「そうだ。第二王子に遠慮するな。公爵家に遠慮するな。君は私の直属だ」 ギルベルト閣下は、当然のように言った。 「君に文句がある者は、私を通せばいい」 その言葉は、馬車の中に落ちた小さな雷のようだった。 胸が、変な音を立てた気がする。 守る、とは言わない。 助ける、とも言わない。 ただ、文句がある者は自分を通せと言う。 それだけなのに、どうしてこんなに心臓に悪いのか。 「……閣下は」 「何だ」 「そういう言い方をすると、誤解されますよ」 「何を」 「いろいろです」 「具体的に言え」 「言いません」 「なぜ」 「私もまだ整理できていないので」 ギルベルト閣下は少し考えるように黙った。 やがて、真顔で言った。 「では、整理できたら報告しろ」 「業務報告ではありません」 「そうか」 私は窓の外を見た。 雨で濡れた王宮の白壁が、鈍く光っている。 頬が少し熱い気がしたのは、たぶん疲れのせいだ。 きっとそうだ。 王議室の扉の前には、近衛兵が二人立っていた。 私の姿を見ると、一瞬だけ視線が揺れた。 だが、ギルベルト閣下が隣にいるため、何も言わずに扉を開ける。 中は、重い空気だった。 長い楕円形の卓。 上座に国王陛下はいない。今日の場は正式な御前会議ではなく、宰相権限による臨時協議なのだろう。 席についていたのは、王太子アーヴィン殿下、第二王子エドガル殿下、王宮文書局長、会計院長、南部侯爵、そして数名の補佐官。 エドガル殿下は、私を見るなり立ち上がった。 「リディア!」 声が大きい。 そして、少し安堵している。 私が来たことで、ようやくいつものように何とかなると思っている顔だった。 その顔を見て、胸の奥にあったわずかな情が、少しだけ冷めた。 「殿下」 私は礼をした。 婚約者としてではなく、王宮に仕える者として。 角度も、長さも、距離も。 そこに親しみは入れない。 エドガル殿下は、それに気づいたのか眉をひそめた。 「君は、一体何をしている。朝から王宮を混乱させ、公爵家でも騒ぎを起こしたと聞いている」 王宮を混乱させた。 公爵家で騒ぎを起こした。 見事に、すべて私のせいになっている。 「騒ぎ、でございますか」 「南部侯爵との会談資料を返さず、私の使者にも冷たい返答をしたそうだな」 南部侯爵が、卓の向こうで片眉を上げた。 年配の貴族で、銀髪を後ろに撫でつけている。顔立ちは厳しいが、目には疲れと怒りがあった。 会談が決裂した直後なら、当然だろう。 「会談資料そのものは、文書局第三保管棚、南部領政務の分類にございます。私は所在をお伝えいたしました」 「だが、要点表がなかった」 「それは私が婚約者として私的に作成していた補助資料です。婚約破棄に伴い、処分いたしました」 「なぜ勝手に!」 「勝手に、でございますか」 私は首を傾げた。 「婚約者ではなくなった女が、自分の私物を処分することに、殿下の許可が必要でしたでしょうか」 室内の空気が、ぴりりと張った。 会計院長が目を伏せる。 文書局長は咳払いをした。 王太子アーヴィン殿下だけは、静かに私を見ていた。 エドガル殿下の顔が赤くなる。 「君は、まだ怒っているのか。昨夜のことを根に持って」 「怒っております」 私が即答すると、エドガル殿下は言葉を失った。 まさか認めると思っていなかったのだろう。 「怒っておりますし、失望もしております。ですが、今回の件は感情の問題ではございません。殿下の会談準備不足です」 「リディア!」 「エドガル」 それまで黙っていた王太子アーヴィン殿下が、弟の名を呼んだ。 低く、静かな声。 エドガル殿下は、ぎくりと肩を揺らした。 「座れ」 「兄上、しかし」 「座れ」 二度目は、命令だった。 エドガル殿下は唇を噛み、しぶしぶ席に戻った。 王太子殿下は、私へ視線を向ける。 「リディア嬢。いや、今はどう呼ぶべきかな」 私は答える前に、ギルベルト閣下を見た。 閣下は静かに一歩前に出る。 「王国臨時監査補佐官、リディア・ヴェルクレア。任期三か月。宰相直属とする」 室内がざわめいた。 文書局長が目を見開き、会計院長が思わず机の上の紙を取り落とした。 エドガル殿下は、呆然とギルベルト閣下を見た。 「叔父上、何を」 「聞こえなかったか」 「なぜリディアが監査局に」 「有能だからだ」 あまりにも簡潔な答えだった。 室内がまた静まる。 私は少しだけ困った。 こういう場で、そんなふうに言われると反応に困る。 ギルベルト閣下は平然としている。 エドガル殿下は顔をしかめた。 「リディアは私の婚約者だった女性です。昨日の今日で、叔父上の直属になるなど、外聞が悪すぎる」 「昨日、婚約を破棄したのはお前だ」 「それは、彼女がセレスティナを」 「その件の調査は別に行う」 ギルベルト閣下の声が、わずかに冷えた。 「階段付近にいた侍女、警備兵、楽師、給仕、全員から証言を取る。セレスティナ嬢の靴とドレスも確認する。押した事実があるなら処分する。ないなら、昨夜の断罪自体が問題になる」 エドガル殿下の顔色が変わった。 彼は、そこまで調べられると思っていなかったのだろう。 あの場の雰囲気で、私が悪いことにして終わるはずだった。 セレスティナが泣き、彼が怒り、私が黙る。 それで終わるはずだった。 「叔父上、そこまで大事にする必要は」 「必要を決めるのはお前ではない」 ギルベルト閣下は冷たく言った。 「婚約破棄を公衆の面前で行った時点で、すでに大事だ」 王太子殿下が小さく頷いた。 「その通りだ。エドガル、お前は王族として、少々感情的に過ぎた」 「兄上まで」 「さらに今日、南部侯爵との会談にも失敗した」 南部侯爵が、そこで重々しく口を開いた。 「失敗、という言葉で済ませるには、いささか不愉快でしたな」 エドガル殿下が気まずそうに視線を逸らす。 侯爵は続けた。 「我が妻の名を間違えるのは、まあ、一度ならば人の間違いといたしましょう。だが、二度目です。そして、足を痛めて以来、馬にも乗れぬ我が次男に狩猟大会の活躍を期待すると言われた時には、さすがに席を立つべきか迷いました」 「それは、私の認識不足で」 「認識不足で政務をされては困る」 南部侯爵の声は静かだった。 だからこそ、怒りが深い。 エドガル殿下は唇を噛んだ。 「今までは、そのようなことは」 「今までは、リディア嬢が事前に補っていたのだろう」 王太子殿下が言った。 エドガル殿下が黙る。 室内の視線が、私へ向く。 私は背筋を伸ばした。 「私は、第二王子殿下の婚約者として、必要と思われる補助を行っておりました」 「補助、ね」 王太子殿下は、少しだけ皮肉めいた笑みを浮かべた。 「文書局長」 「は、はい」 「今日、第二王子執務室から照会された件数は」 「朝から現在までで、十九件でございます」 「平時は?」 「リディア様がいらした頃は、一日平均三件ほどで」 「会計院長」 「はい」 「予算案の差し戻しは」 「本日、第二王子関連で四件。いずれも添付資料不足、署名箇所の誤り、前提数値の未確認です」 王太子殿下は、ゆっくりとエドガル殿下を見た。 「補助というには、ずいぶん大きな穴だったようだな」 エドガル殿下は、悔しそうに私を見た。 その目に、感謝はない。 あるのは、恥をかかされた怒りだ。 私は少しだけ悲しくなった。 この期に及んでも、彼は私が何をしていたのかではなく、自分が恥をかいたことを見ている。 「リディア」 エドガル殿下は声を抑えて言った。 「君も分かっているだろう。王宮が混乱している。今だけでいい。私の執務室に戻ってくれ。婚約の件は……それとは別に、後で話し合えばいい」 後で。 便利な言葉だ。 私の痛みは後で。 私の名誉は後で。 私の人生は後で。 今必要なのは、殿下の書類。 「お断りいたします」 私は言った。 エドガル殿下が目を見開く。 「何?」 「私は現在、宰相直属の臨時監査補佐官です。第二王子殿下の執務補佐に戻る理由がございません」 「君は、そんなに私を困らせたいのか」 「違います」 「ならば」 「殿下が困っているのは、私が困らせたからではありません」 私は一つ一つ、言葉を置くように続けた。 「殿下がご自身の仕事を、私の仕事だと思い込んでおられたからです」 室内が静まり返った。 エドガル殿下の顔が、屈辱に歪む。 「君は、私を無能だと言いたいのか」 「いいえ」 「では何だ」 「今から有能になる機会が来た、と申し上げています」 南部侯爵が、小さく喉を鳴らした。 笑いをこらえたのかもしれない。 王太子殿下も、口元をわずかに押さえている。 エドガル殿下は笑えない顔だった。 「リディア、君は変わった」 「そうかもしれません」 「昨日までは、そんなふうに私へ恥をかかせる女ではなかった」 「昨日までは、殿下の恥を私が隠していましたので」 言った瞬間、自分でも少し驚いた。 口が悪い。 けれど、本当のことだ。 ギルベルト閣下が隣で、小さく息を吐いた。 笑っている。 絶対に笑っている。 今は笑う場面ではない。 でも少しだけ心強い。 「叔父上」 エドガル殿下は、ギルベルト閣下へ向き直った。 「リディアは今、感情的になっています。昨日の件で傷ついたのは分かりますが、このような状態で監査など」 「お前より冷静だ」 ばっさり切った。 室内に、何とも言えない空気が流れる。 エドガル殿下が絶句する。 ギルベルト閣下は続けた。 「少なくとも、リディアは南部侯爵夫人の名前を間違えない」 「叔父上!」 「さらに、聖ルカ孤児院の屋根修繕費が不正流用された可能性を、半日で資料化した。仕立屋の帳簿、支払い名目、関係書簡、ヴェルクレア公爵夫人の署名まで揃えている。監査官としては十分だ」 その言葉に、王太子殿下の表情が変わった。 「聖ルカ孤児院?」 「慈善基金の件です」 私は書類を差し出した。 王太子殿下は受け取り、目を通す。 数枚めくるうちに、顔から柔らかさが消えた。 「これは」 「孤児院の屋根修繕費として支出された金が、セレスティナ・ヴェルクレア嬢の夜会用ドレス代に流れていた記録です」 室内に、重い沈黙が落ちた。 エドガル殿下が、かすれた声を出す。 「セレスティナの?」 「はい」 「彼女は知らなかったはずだ」 「その可能性はあります」 私は認めた。 「ですが、支出を承認したのは母オルガ・ヴェルクレア公爵夫人。仲介したのは執事長アルマン。仕立屋側にも記録があります」 「セレスティナを巻き込むな」 エドガル殿下の声に、また怒りが混じる。 私は彼を見た。 「殿下」 「何だ」 「孤児院では、雨漏りのために二階の寝室が使えず、子どもたちは冬の間、食堂で眠っていたそうです」 「それは、気の毒だが」 「薬代も足りず、毛布も足りず、靴下も足りていませんでした」 「だからといって、セレスティナを責めるのは」 「責めるべき相手を、殿下がお決めになるのですか」 エドガル殿下は言葉に詰まった。 「殿下は昨夜、私を責める相手に選びました。妹が泣いていたから。弱く見えたから。守るべきだと思ったから」 私は静かに言った。 「では、泣かなかった子どもたちは、守られなくてよいのですか」 王議室が、痛いほど静かになった。 エドガル殿下は、何か言おうとして、何も言えなかった。 私は続ける。 「孤児院の子どもたちは、大広間で泣きません。王子殿下の袖を掴むこともできません。可哀想な顔をして、皆様の前に座ることもできません」 声が少し震えた。 怒りで。 「だから、書類が必要なのです。声が届かない者のために、数字と証拠が必要なのです」 自分で言いながら、胸の奥が熱くなった。 私は、こんなことを言う人間だったのだろうか。 昨日までの私は、誰かの機嫌を損ねない言葉ばかり選んでいた。 でも今は違う。 目の前の誰かを傷つけても、言わなければならないことがある。 ギルベルト閣下が、静かに私を見ていた。 王太子殿下は、書類を卓に置いた。 「リディア嬢」 「はい」 「この件、正式に監査案件として扱うべきだな」 「はい」 「南部侯爵」 王太子殿下が視線を移す。 南部侯爵は頷いた。 「我が家も慈善基金に寄付を出しております。使途が不正であるなら、見過ごせませんな」 夫人の名を間違えられた怒りとは別の、貴族としての怒りがそこにあった。 会計院長も顔を引き締める。 「会計院としても、基金経由の支出について確認いたします」 文書局長が慌ててメモを取る。 流れが変わった。 昨日の夜、私を悪女として見ていた王宮が、今は私の持つ書類を見ている。 感情ではなく、証拠を。 それだけで、こんなにも世界の色が変わる。 「待ってください」 エドガル殿下が低く言った。 「慈善基金の件は、調べればよいでしょう。だが、リディアが叔父上の直属になる必要はない。彼女は当事者です。ヴェルクレア家の人間であり、セレスティナの姉でもある。感情が入らないはずがない」 「入ります」 私は言った。 エドガル殿下がこちらを見る。 「感情は入ります。怒りもあります。悔しさもあります。母を信じたかった気持ちも、妹をまだ完全には憎みきれない気持ちもあります」 口にすると、少しだけ痛い。 けれど、嘘はつきたくなかった。 「ですが、だからこそ私は知っています。どこに隠すか。誰が泣いて誤魔化すか。誰が家のためと言うか。誰が書類の名目を変えるか」 私は、エドガル殿下を見据えた。 「私は、あの家の嘘の形を知っています」 エドガル殿下は黙った。 王太子殿下も、南部侯爵も、会計院長も、誰も口を挟まない。 「感情があることは、監査官として弱点かもしれません。でも、目を逸らさない理由にもなります」 ギルベルト閣下が、私の隣で口を開いた。 「私が監督する」 短い一言。 それだけで、場の空気がさらに引き締まった。 「リディアが暴走すれば私が止める。誰かが彼女を潰そうとすれば、私が潰す」 王太子殿下が目を細めた。 「叔父上。後半の表現が少々物騒です」 「事実だ」 「そこは否定していただきたいところでした」 南部侯爵が今度こそ小さく笑った。 会議室の緊張が、ほんの少しだけ緩む。 私は隣のギルベルト閣下を見た。 誰かが彼女を潰そうとすれば、私が潰す。 また、そういう言い方をする。 心臓に悪い。 本当に悪い。 エドガル殿下は、信じられないという顔で私とギルベルト閣下を見比べた。 「叔父上は、リディアをそこまで信用しているのですか」 「している」 即答だった。 あまりにも早かったので、私まで驚いた。 「なぜ」 エドガル殿下の声には、困惑と苛立ちが混じっていた。 「昨日まで、君はリディアを十年隣に置いていた」 ギルベルト閣下は淡々と言った。 「その十年で、彼女がどれほどの仕事をしていたか気づかなかった」 エドガル殿下の顔が強張る。 「私は昨日の夜、十数分で気づいた」 室内が静まり返る。 「それだけだ」 それだけ。 けれど、その言葉は重かった。 十年と、十数分。 私は、思わず視線を落とした。 嬉しい、と思ってしまった。 悔しいのに。 悲しいのに。 今さら誰かに認められて嬉しい自分が、少し惨めで、少し愛おしかった。 王太子殿下が軽く息を吐いた。 「リディア嬢。正式な任命については、私からも異議はない。父上への報告はこちらで行う」 「ありがとうございます」 「ただし、ヴェルクレア家の件については、王家にも影響が出る。第二王子の婚約破棄騒動と結びつけば、社交界は荒れるだろう」 「承知しております」 「荒れるぞ」 念を押すような声だった。 私は頷いた。 「すでに荒れておりますので」 王太子殿下は一瞬だけ目を丸くし、それから少し笑った。 「強いな」 「強いのではありません」 私は言った。 「もう、黙って整えるのをやめただけです」 王太子殿下は、静かに頷いた。 「分かった。では、王太子として命じる。リディア・ヴェルクレアを王国臨時監査補佐官として承認する。宰相直属の任務を妨害する者は、王宮規律違反として扱う」 文書局長が慌てて記録する。 会計院長が頭を下げる。 南部侯爵も頷いた。 その場で、私の立場が定まった。 第二王子の元婚約者ではなく。 泣き虫妹の姉ではなく。 冷たい悪女でもなく。 王国臨時監査補佐官。 私の名前で立つ場所。 胸の奥が、少しだけ震えた。 エドガル殿下は、青ざめた顔で私を見ていた。 「リディア」 「はい」 「君は、本当に私のもとへ戻らないのか」 声が、少し弱くなっていた。 今までのような命令ではない。 怒りでもない。 ただ、初めて本当に分からないという声。 「戻りません」 私は答えた。 「婚約者としても、補佐としても」 「……昨日のことは、私も少し言い過ぎたかもしれない」 少し。 婚約を破棄し、人前で私を悪女にしたことが、少し。 私は、笑わなかった。 「殿下」 「何だ」 「謝罪は、必要な相手と内容を間違えると、さらに人を傷つけます」 エドガル殿下は黙った。 「今の殿下は、私に謝りたいのではなく、ご自身が困っている状況を戻したいだけです」 「違う」 「では、何に対して謝っているのですか」 エドガル殿下は答えられなかった。 まただ。 昨日と同じ。 私が何を言えば信じたのかと尋ねた時も、彼は答えられなかった。 この人は、自分の感情には名前をつけられない。 ただ、誰かに整えてもらっていただけだ。 「……君は、本当に冷たくなった」 「いいえ」 私は首を横に振った。 「私はずっと、このくらい冷えていました。殿下が気づかなかっただけです」 エドガル殿下の顔が、痛みをこらえるように歪んだ。 少しだけ胸が痛んだ。 でも、言葉は取り消さない。 王太子殿下が会議を締めた。 「本件は宰相主導で進める。南部侯爵との会談については、第二王子側で改めて謝罪文を作成し、王太子府で確認する。リディア補佐官に回すな」 最後の一言に、文書局長が真剣な顔で頷いた。 エドガル殿下は何も言わなかった。 王議室を出ると、廊下には人が集まりかけていた。 官吏、侍女、近衛、文官。 皆、仕事をしているふりをしながら、こちらを見ている。 噂の現場を見たいのだ。 婚約破棄された令嬢が、冷血宰相の直属として王議室から出てくる瞬間を。 私は背筋を伸ばした。 以前なら、この視線に怯えていた。 怖くないわけではない。 だが、今はそれ以上に腹が立つ。 人の人生を、茶菓子のようにつまんで楽しむ視線に。 ギルベルト閣下が、私の隣で足を止めた。 「リディア」 「はい」 「顔を上げろ」 「上げています」 「もっとだ」 「首が痛くなります」 「ならない程度に」 私は少しだけ笑いそうになった。 廊下のざわめきの中で、ギルベルト閣下は周囲へ向けて静かに告げた。 「リディア・ヴェルクレアは、本日より王国臨時監査補佐官として私の直属任務に就く。職務上の接触を妨害した者、虚偽の噂により監査を阻害した者は、身分を問わず処分する」 廊下が、一瞬で静まった。 冷血宰相の声は、よく効く。 嫌な意味でも、ありがたい意味でも。 ギルベルト閣下はさらに続けた。 「それと」 なぜか、嫌な予感がした。 「彼女を悪女と呼ぶなら、覚悟して呼べ。悪女は帳簿を読む」 廊下にいた数人が、明らかに顔色を変えた。 私は隣で小さく言った。 「閣下」 「何だ」 「やはり、その呼び名を広めるおつもりですね」 「効くだろう」 「効きますが」 「なら使う」 「私の名誉は?」 「回復する前に、利用する」 「最悪です」 「終わった後で、きちんと返す」 私は思わず彼を見た。 ギルベルト閣下は前を向いている。 表情はいつも通り。 だが、その言葉は妙に静かだった。 終わった後で、きちんと返す。 名誉を。 それは、誰も言ってくれなかったことだ。 エドガル殿下は、私の名誉を奪った。 母は家の恥だと言った。 妹は私を怖がった。 父は黙らせようとした。 けれどこの人は、利用すると言いながら、返すと言った。 「……期待してもよろしいのですか」 私が尋ねると、ギルベルト閣下は短く答えた。 「ああ」 「閣下は、約束を破りますか」 「必要がなければ破らない」 「必要があれば破るのですか」 「国が滅ぶならな」 「基準が大きすぎます」 「君の名誉より国の存亡が重いのは、許せ」 「そこは許します」 「なら問題ない」 私は、とうとう小さく笑ってしまった。 廊下にいた侍女の一人が、驚いたような顔をした。 たぶん、私が笑うと思っていなかったのだろう。 リディア・ヴェルクレアは冷たい。 笑わない。 怖い。 そういう噂だったから。 でも、私は笑う。 傷つくし、怒るし、疲れるし、時々妙なことで笑ってしまう。 そういう普通の人間だ。 それを、これから少しずつ取り戻していくのかもしれない。 東棟へ向かう途中、文書局の若い官吏が駆け寄ってきた。 「リディア補佐官!」 補佐官。 その呼び名に、少しだけ背筋が伸びる。 「何でしょう」 「聖ルカ孤児院への緊急支援ですが、宰相閣下の承認で仮補修費、薬代、毛布、衣類の手配が通りました。業者が夕刻までに向かいます」 私は思わず、息を吐いた。 間に合った。 少なくとも、今夜の雨に少しは間に合う。 「ありがとうございます」 私が言うと、官吏は慌てて首を振った。 「いえ、こちらこそ。あの、孤児院の子どもたちの靴下も、追加で入れておきました」 ギルベルト閣下が官吏を見る。 官吏はぎくりとした。 「そ、その、記録には衣類とありましたが、靴下が必要と聞きましたので」 「よくやった」 ギルベルト閣下が言った。 官吏は目に見えてほっとした。 私は少し笑った。 「ありがとうございます。きっと喜びます」 「はい!」 官吏は頭を下げて去っていった。 その背中を見送りながら、私は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。 全部が壊れたわけではない。 王宮にも、きちんと動く人はいる。 声が届けば、動く手はある。 それなら、私は声を届ける側になればいい。 「リディア」 ギルベルト閣下が言った。 「はい」 「少し顔色が戻った」 「また顔色ですか」 「事実だ」 「褒め言葉ではありませんね」 「では、よくやった」 私は足を止めそうになった。 それは、ずるい。 急に普通に言われると、困る。 「……ありがとうございます」 「ああ」 「閣下」 「何だ」 「今のは、少し効きました」 「覚えておく」 「覚えなくて結構です」 「もう覚えた」 「本当に厄介な方ですね」 私はそう言いながら、東棟の窓の外を見た。 雨はまだ降っている。 けれど、先ほどより少し弱くなっていた。 王宮の庭に咲く白い花が、雨粒を受けて揺れている。 その向こうで、雲の切れ間から細い光が差していた。 私はもう、昨日までの私ではない。 公爵家の都合のいい娘ではない。 第二王子の影の補佐でもない。 妹の涙を受け止めるためだけの姉でもない。 冷血宰相の直属。 王国臨時監査補佐官。 そして、悪女と呼ばれるなら、それでもいい。 悪女は帳簿を読む。 悪女は証拠を揃える。 悪女は、泣いている者の裏で笑う者を見逃さない。 私は静かに息を吸った。 次に暴くべきものは、もう見えている。 慈善基金の帳簿。 ヴェルクレア家の執事長アルマン。 そして、母の署名のさらに奥にある、第二王子派の資金の流れ。 桃色のドレスは、入り口にすぎない。 この王宮の中には、まだいくつもの弱みが眠っている。 私はそれを知っている。 知っている以上、もう黙らない。 「閣下」 「何だ」 「次の書類をください」 ギルベルト閣下は、ほんのわずかに笑った。 「働きすぎだ」 「人手不足なのでしょう?」 「便利な女だな」 「その言葉は嫌いです」 「では訂正する」 彼は足を止め、私を見た。 「必要な女だ」 胸の奥が、変な音を立てた。 雨の音が遠くなる。 私は一瞬だけ、返す言葉を失った。 ギルベルト閣下は、何事もなかったように歩き出す。 「行くぞ。悪女監査官」 私は慌ててその後を追った。 「やはり呼び名が最悪です」 「必要な女よりは照れないだろう」 「聞こえていたのですか」 「顔に出ていた」 「出ていません」 「出ている」 「出ていません」 そんなくだらないやり取りをしながら、私は王宮東棟の廊下を歩いた。 少し前まで、この廊下は私にとって誰かのために頭を下げる場所だった。 今は違う。 私は、自分の足でここを歩いている。 そして、その先には山ほどの書類が待っている。 悪女の仕事としては、悪くない始まりだった。オルガ・ヴェルクレア公爵夫人は、受領書というものを軽く見ていた。 少なくとも、以前の彼女はそうだった。 物資が届けば、使用人が確認する。 寄付金が動けば、会計係が記録する。 茶会の収支は執事長が整え、礼状は書記係が下書きし、最後に夫人である自分が目を通して署名する。 それが、公爵家の慈善だった。 美しい封筒。 整えられた字。 感謝の言葉。 夫人方の穏やかな微笑み。 銀の茶器。 白い花。 そこに、木箱の数や、毛布の枚数や、石鹸の重量などというものが入り込む余地はなかった。 少なくとも、オルガの中では。 だから、彼女は今日、王宮東棟の雨音基金準備室で、一枚の受領書を前にして、完全に固まっていた。「公爵夫人」 監督官の声は、決して荒くない。 むしろ丁寧だった。 丁寧すぎるほど丁寧だった。 それが余計につらい。「こちらの欄には、納入予定数ではなく、実際に受領した数を記入してください」 オルガは、羽根ペンを持ったまま、紙を見つめた。 納入予定数。 実際に受領した数。 似ている。 いや、似ていないのかもしれない。 だが、今の彼女には似て見えた。 書類にはこうある。『冬季支援用毛布 納入予定数:百二十枚 実受領数:百十六枚 不足数:四枚 備考:運搬中破損二枚、積込時確認漏れ二枚。再納入予定あり』 オルガは、その一番上の百二十枚を見て、受領欄へ百二十と書いていた。 美しく。 とても美しい字で。
第99話 宰相夫人のひいき リディアがハーグレイヴ伯爵家から受け取った最初の返事は、財産記録ではなかった。 正式な抗議状だった。『王国監査官リディア・ヴェルクレアは、私的な家族経験から生じた偏見により、善良な寄付者を不当に犯罪者扱いしている』「善良な寄付者」 ギルベルトが、感情のない声で読み上げた。 感情がない時ほど、彼は怒っている。 レイヴァン邸の朝食室。 焼きたてのパンも、温かい卵料理も、誰にも手をつけられないまま冷め始めていた。「続きがあります」 リディアは抗議状の二枚目をめくる。「読みたくない」「公文書です」「君が読めばいい」「先ほどから読んでいます」「私の前で読むな」「同じ部屋にいるので無理です」 ギルベルトは抗議状を睨んだ。 紙に罪はない。 だが、今の彼なら紙へ爵位剥奪を命じかねない。「オズワルド・ハーグレイヴ伯爵は、公開審問を要求しています」 ロザリーが淡々と報告する。「監査官による権限濫用の有無、寄付者への不当な圧力、伯爵家の名誉毀損について、王宮で明らかにしたいとのことです」「受ける必要はない」 ギルベルトが即答した。「受けます」 リディアも即答した。 二人の声が重なった。「なぜだ」「拒否すれば、権力で隠したと言われます」「言わせておけ」「雨音基金の信用へ影響します」「君の安全より基金を優先するな」「今回は石を投げられていません」「
聖ルカ孤児院へ行く日の朝、ギルベルト・レイヴァン王弟宰相は、いつになく真剣な顔で荷物の前に立っていた。 王宮の会議室で旧貴族派と向き合う時も、ヴァルモント公爵の処分文書を読み上げる時も、ここまで険しい顔はしていなかった気がする。 目の前にあるのは、木箱三つ。 一つ目は、雨音基金設立前の臨時支援物資。 中身は新しい毛布、靴下、石鹸、薬草茶、簡易包帯。 二つ目は、子どもたち用の手習い板と筆記具。 三つ目は、王妃宮から届いた焼き菓子と干し果物。 そして、少し離れた椅子の上に、セレスティナが持参した焼き菓子の籠があった。 その籠だけ、なぜか誰も触れない。 リディアはそれを見て、少しだけ胸が痛んだ。 避けているわけではない。 ただ、皆がほんの少し警戒している。 前回の焼き菓子が、なかなかの硬さだったからだ。「閣下」 リディアが声をかけると、ギルベルトは木箱から目を離さずに答えた。「何だ」「そんなに見つめても、荷物は軽くなりません」「配置を確認している」「配置?」「馬車へ積む順番だ。一番重いものを奥に、すぐ使うものを手前に置く。孤児院到着後に運ぶ動線も確認した」「……本当に雑務係として本気ですね」 そう言った瞬間、ギルベルトが静かにリディアを見た。「雑務係ではない」「失礼しました。荷物係でしょうか」「それも違う」「では」「宰相だ」「宰相が荷物を運ぶのですか」「必要なら」 この人は本当に、必要と言えば何でも押し通せると思っている。 リディ
名前を決めるだけの会議ほど、長引くものはない。 リディアは、王宮東棟の会議室でそれを思い知っていた。 机の上には、新しい救貧基金の設立案が置かれている。 白羽の会を解体し、王妃宮から独立させ、支援先代表と監査局が関わる透明な基金として再編する。 そこまでは決まった。 支援先が直接窮状を申請できる窓口。 寄付総額、実支援額、運営費の公開。 礼状文面指定の禁止。 茶会費、装飾費、記念品費を寄付金から出さないこと。 支援先代表の運営監査参加。 王妃宮や特定貴族家の政治的影響排除。 大事な骨組みは、もう決まっている。 だが、名前が決まらない。 それだけで会議は三時間目に突入していた。「ですから、格式というものが必要なのです」 グレイシア侯爵夫人が、扇を閉じながら言った。 彼女は白羽の会の旧運営委員ではないが、王都婦人慈善連絡会の代表として出席している。 悪い人間ではない。 悪い人間ではないが、自分が格式という言葉を使う時、なぜ人が少し疲れた顔をするのかまでは、まだ理解していない。「救貧基金というものは、ただ物資を配る箱ではありません。寄付者に信頼を与え、支援先に安心を与え、王都社交界にも品位ある形を示さなければなりません」 リディアは、手元の候補名一覧を見る。 一つ目。『王妃宮救貧基金』 却下に近い。 王妃宮から独立させるための基金なのに、王妃宮と名付けてどうするのか。 二つ目。『王国慈善透明基金』 正しい。 とても正しい。 だが、あまりに硬い。 監査局の書類棚
ユージーン・ヴァルモント公爵は、最後の日にも白い手袋をしていた。 皺ひとつない、上等な手袋だった。 灰色の礼服も、銀の杖も、磨かれた靴も、昨日までと変わらない。 まるで、自分は何も失っていないのだと言い聞かせるような整い方だった。 王宮東棟の処分確認室。 そこに集められた者は多くない。 王太子アーヴィン。 王弟宰相ギルベルト。 王国監査官リディア・ヴェルクレア。 監査局記録官ロザリー。 補助官セオ。 そして、ヴァルモント公爵本人。 以前のように旧貴族派の取り巻きはいない。 夫人方もいない。 式部局の者も、王妃宮の女官もいない。 ただ、処分文書と、署名台と、証人たちだけがある。 それがかえって、ヴァルモント公爵の孤立を際立たせていた。 リディアは、机の上に置かれた処分文書を見つめた。 紙は厚く、白い。 だが、王妃宮の白さとは違う。 隠すための白ではない。 記録として残すための白だ。 アーヴィン王太子が、静かに口を開いた。 「ユージーン・ヴァルモント公爵。白羽の会、王妃宮名義書簡、慈善支援配分、式部局評判整理案、ならびにヴァルモント公爵家秘書室関連文書について、王太子府および王国監査局は最終処分を決定した」 ヴァルモント公爵は、深く礼をした。 「拝聴いたします」 声は穏やかだった。 けれど、昨日までの余裕はない。 その穏やかさは、薄い氷のようだった。 触れれば割れる。 ただ、まだ割れていないだけだ。 アーヴィンは文書を読み上げる。 「第一。ユージーン・ヴァルモント公爵の王宮内全役
婚約発表の翌朝、リディアはいつも通りに起きた。 劇的な朝ではなかった。 小鳥が祝福するように鳴いたわけでもない。 窓から差し込む光が、昨日より特別に輝いていたわけでもない。 枕元に薔薇の花束が置かれていたわけでもない。 ただ、いつも通りの朝だった。 少しだけ違うことがあるとすれば、机の上に昨日の婚約発表で受け取った祝辞の束と、聖ルカ孤児院からの手紙と、ギルベルトから届いた封書が並んでいることくらいだ。 リディアは寝台から起き上がり、まず自分の手を見る。 昨日、自分の名前を言った手。 リディア・ヴェルクレア。 王国監査官。 そして、ギルベルト・レイヴァンの隣に立つことを自分で選んだ人間。 そう言った。 言えた。 その事実は、まだ胸の中で少し熱を持っていた。 夢ではなかったかと疑って、リディアは机の上の封書を見た。 ギルベルトの字だ。 硬く、まっすぐで、少し力が入りすぎている字。 昨日の夜、祝いの場から戻った後に届けられていた。 甘い言葉が書かれているのだろうか。 婚約者らしい、柔らかな言葉が。 そう思って開いたリディアは、最初の一行でしばらく沈黙した。『朝食を取ったか。取っていないなら、この書簡への返事より先に食べろ。』 ……婚約者からの、婚約発表翌朝の手紙である。 リディアは、便箋を持ったまま目を閉じた。 甘い。 いや、甘くはない。 まったく甘くはない。 けれど、妙にギルベルトらしい。 その下には続きがあった。『昨日はよく立っ







